福原愛 - Wikipedia
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福原 愛(ふくはら あい、1988年〈昭和63年〉11月1日 - )は、1990年代から2010年代にかけて活躍した日本の元卓球選手。
青森大学・客員准教授。
Tリーグアンバサダー。
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目次
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1来歴
来歴サブセクションを切り替えます
1.1幼少期
1.2「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」の始まり
1.3プロ宣言後
1.4高校進学からアテネオリンピックまで
1.5中国挑戦から北京オリンピックまで
1.6ロンドンオリンピックまで
1.7リオデジャネイロオリンピックまで
1.8現役引退、そして今
1.9略年譜
2プレースタイル
3マネジメント
4人物
人物サブセクションを切り替えます
4.1両親との関係
4.2中国での評価
5エピソード
6戦歴
戦歴サブセクションを切り替えます
6.1オリンピックでの対戦成績
7成績
成績サブセクションを切り替えます
7.1シングルス
7.2ダブルス
7.2.1混合ダブルス
7.3団体戦
7.4対戦成績
7.5世界ランキング
8受賞など
9主な出場イベント
10テレビ出演
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10.1CM・広告
10.2アテネ五輪の試合放送
11関連商品
関連商品サブセクションを切り替えます
11.1関連書籍・出版物
12脚注
脚注サブセクションを切り替えます
12.1注釈
12.2出典
13外部リンク
ページノート
日本語
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その他
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出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福原愛
2016年世界卓球選手権基本情報よみがな
ふくはらあいラテン文字
AiFukuhara愛称
愛ちゃん,天才卓球少女,小愛,瓷娃娃生年月日
(1988-11-01)1988年11月1日(33歳)国籍
日本出身地
宮城県仙台市居住地
日本血液型
B型身長
155cm公式サイト
福原愛オフィシャルサイト選手情報最高世界ランク
4位(2015年10月)段級位
7段利き腕
右グリップ
シェークハンドラケット
福原愛プロZLF-FLフォア面ラバー
スピンアートバック面ラバー
アタック8特注シューズ
WAVEDRIVEZ[1]戦型
フォア裏ソフト・バック表ソフト前陣速攻型ITTFサイト
ITTFプロフィール経歴学歴
青森山田中学高等学校
早稲田大学中退所属歴
全日本空輸(ANA)代表歴
日本代表2002-2016ITTFワールドツアー戦歴生涯成績
498試合327勝勝率66%世界卓球選手権戦歴出場大会数
13初-最終出場
2003-2016国内戦歴
全日本選手権シングルス2011,2012
全日本選手権女子ダブルス2002-2004,2007
全日本選手権混合ダブルス2004,2006受賞歴
JOCスポーツ賞特別功労賞2010,2012
獲得メダル
日本
女子卓球
オリンピック
銀
2012ロンドン
女子団体
銅
2016リオデジャネイロ
女子団体
世界卓球選手権大会
銅
2004ドーハ
女子団体
銅
2006ブレーメン
女子団体
銅
2008広州
女子団体
銅
2010モスクワ
女子団体
銅
2011ロッテルダム
混合ダブルス
銀
2016クアラルンプール
女子団体
ワールドカップ
銅
2005広州
女子シングルス
銅
2009広州
女子団体
銅
2010クアラルンプール
女子団体
銀
2011シンガポール
女子団体
銀
2013神戸
女子団体
ワールドツアーグランドファイナル
銀
2001天津市
女子ダブルス
銅
2010ソウル特別市
女子シングルス
銀
2011ロンドン
女子ダブルス
アジア競技大会
銅
2002釜山
女子団体
銅
2010広州
女子シングルス
銅
2010広州
女子ダブルス
銅
2010広州
混合ダブルス
銀
2014仁川
女子団体
銅
2014仁川
混合ダブルス
アジア選手権
銀
2003バンコク
女子ダブルス
銅
2005済州
女子ダブルス
銅
2005済州
女子団体
銅
2007揚州
女子団体
銅
2009ラクナウ
混合ダブルス
銅
2012マカオ
女子団体
銅
2013釜山
女子団体
銀
2015パタヤ
女子団体
アジアカップ
銀
2004バンダルマズハー
女子シングルス
世界ジュニア卓球選手権
銅
2003サンティアゴ
女子ダブルス
銅
2004神戸
女子シングルス
銅
2004神戸
混合ダブルス
■テンプレート■プロジェクト:卓球■選手一覧
福原愛(ふくはらあい、1988年〈昭和63年〉11月1日-)は、1990年代から2010年代にかけて活躍した日本の元卓球選手。
青森大学・客員准教授。
Tリーグアンバサダー。
宮城県仙台市生まれ、身長155cm、血液型B型[2]。
全日本空輸(ANA)に所属。
早稲田大学中退[3]。
2016年から2021年まで江宏傑と結婚していた[4]。
史上初の全日本グランドスラム達成者であり、五輪2大会連続のメダリスト。
ITTF世界ランキング最高位は4位(2015年10月)。
段級位は7段。
日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。
日本では幼少期からテレビなどマスメディアに頻繁に登場し、「卓球の愛ちゃん」「天才卓球少女・愛ちゃん」「泣き虫・愛ちゃん」などと呼ばれ、国際大会で活躍するようになってからは中華圏で「小愛」(シャオアイ)や「瓷娃娃」(ツーワーワー)などと呼ばれ親しまれている。
その注目度から、内閣府「災害被害を軽減する国民運動サポーター」、中国などとの間の様々な親善大使、出身地である仙台市の観光大使、CM出演なども務めてきた。
2018年10月、現役引退を表明した[5]。
来歴
幼少期
秋田県大曲市(現・大仙市)出身(2013年10月6日逝去)の父親[6](当時、宮城県仙台市で会社経営[7])と、宮城県登米郡石越町(現・登米市)出身の母親[8](元・卓球選手[9])との間に、1988年(昭和63年)[注1]11月1日に宮城県仙台市の病院にて出生[2][9]。
福原自身は、仙台市青葉区国見ヶ丘出身としている[注2]。
「愛」という名は、出生の1年前に亡くなった祖母「愛子」からもらった[注3][10]。
福原は生後6か月でスイミングを始めた[7]。
10歳年上の兄が、東京在住の中国の卓球元チャンピオンに仙台に来てもらって[注4]1-2回/月の指導を受けていたが、費用面から仙台に移住してもらって毎日指導してもらえる環境を整えた[7]。
このような環境下[7]、母と兄の影響で[9][11]、1992年(平成4年)8月13日に母からラケットをもらい、福原も卓球を始めた[12]。
すなわち、3歳9か月から卓球の英才教育を受けたが、プレイするには身長が低かったため、ゴミ箱や並べた缶詰の上に乗って高さ調整をして、平日4時間、休日8時間の練習を毎日欠かさず行った[11]。
また、週末になると栃木県の有名な卓球クラブに出向き、泊まりがけで練習した[13]。
練習を始めて数か月でミスなく100本ラリーが出来るようになり、4歳6か月で1000本ラリーが出来るようになった[11]。
卓球クラブ「仙台ジュニアクラブ」に所属した[14]。
「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」の始まり
初の公式戦出場は、1993年(平成5年)6月(4歳時)に開催された「宮城県小学生卓球選手権大会」であり、同大会で優勝、全国大会の同クラスでもベスト16に入った[9][11]。
公式戦中に泣き顔を見せたのはこの4歳のときだけである[7][注5]。
マスコミは、幼稚園生が小学生のクラスで快進撃を続ける姿に注目し、「天才卓球少女」と報道した[11]。
これ以降、行く先々にマスコミが集まるようになるが(4歳でテレビでの初インタビューを受けた)、天真爛漫に振舞う福原はテレビでもしばしば取り上げられ「卓球の愛ちゃん」として知られるようになり、また、厳しい練習にも泣きながら耐える姿や、試合中に不利になり始めると泣き出す姿から「泣き虫・愛ちゃん」とも呼ばれるようになって、一躍国民的アイドルとなった[11]。
同年12月10日放送のフジテレビ「第2回明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演。
すると、番組内での対戦で明石家さんま[出典無効](当時38歳)が福原(当時5歳)を泣かせた[15][注6]。
デーモン小暮との対戦でも泣かされた[出典無効][注7][注8]。
1994年(平成6年)になると卓球専門誌「卓球レポート」の表紙に4月号で初登場し[16]、同年5月には社会人リーグの大会(鹿児島県)、同年6月には社会人の全日本実業団卓球選手権大会(大阪府)[17]に呼ばれてエキシビションマッチでプレーするなど、本来の卓球界においても全国各地に呼ばれる人気者となった。
選手として2度目の全国大会に出場すると、個別にマスコミ対応していては福原の負担になるため初めて共同記者会見が開かれ、5歳10か月の幼稚園生ながら[11]全日本選手権バンビの部(小2以下)において、史上最年少で優勝した[11]。
同年12月にはウッチャンナンチャンの南原清隆[出典無効]が「泣いた瞬間の愛ちゃんと記念撮影を撮る」という企画で福原と対戦して泣かせた。
「初泣き!初打ち!お正月の愛ちゃん!!八丈島で(秘)特訓」でも母との1000本ラリーが完遂しなかったため、泣きながら再度ラリーを続ける姿が放送された。
すなわち、公式戦では4歳時にしか泣いていない[7]が、後に福原が「泣くまで撮影が続けられた」と語った[注9]ように、長年『あっぱれさんま大先生』に出演し子役の扱い方を知っているはずの明石家さんまが泣かし、南原は泣かすことを公言して対戦し、母親から泣かせ方を伝授されるなど、バラエティ番組では制作側によって意図的に泣かされ、その泣き姿がスポーツ報道における福原の紹介ビデオなどでも繰り返し放送されたことで、まるで子役タレントのキャッチコピーのような「泣き虫・愛ちゃん」というイメージが固定化されていった[注10]。
その一方、同年の大会以降も数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作っていくことで、「天才卓球少女」の名に違わぬ活躍を続けた。
仙台白百合学園幼稚園年長の1995年(平成7年)3月(6歳時)にテレビゲームソフトメーカー「ハドソン」のCMに初出演[9]。
同年4月に仙台市立吉成小学校に入学[9]。
プロ宣言後
小4(10歳4か月[11])でプロ宣言し、ミキハウス(大阪府八尾市)と専属契約を結び、1998年(平成10年)8月に仙台市より八尾市へ引っ越した[9][注11]。
福原は当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになった。
2年間通った王子卓球センターの作馬六郎から「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛の代名詞ともなった(今はほとんど使っていない)。
なお、同センター前の道路は、福原の功績により「ピンポン通り」と命名された[18]。
大阪では公立小学校に通っていた。
小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。
中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、福原は既にプロ契約をしていたため、アマチュア規程により全中やインターハイなどには出場できないという懸念があった。
結局地元公立中へ入学したが、1か月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学校に転校した。
青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校。
法人は卓球専用の体育館などの施設を備えている。
同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由である。
これにより福原は多くの卓球遠征が可能になった(その後福原は「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中もインターハイ[19]も国体も特例で出場できるようになった)。
ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原をその所属とした(他には青森大学の坂本竜介などがいて、混合ダブルスペアをよく組んでいる)。
小西杏とはダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼亜衣と組んでいる)。
以降、中学の3年間は世界各地のITTFプロツアーに数多く出場。
安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。
この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。
選考会などを経て14歳の若さで2003年世界卓球選手権個人戦に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8に進出。
この結果により翌2004年3月の世界選手権団体戦と、4月のアテネ五輪アジア予選出場が内定[20]。
2001年にはコーチの黄智敏と1分間に175回のラリーを続けるというギネス記録を達成している。
高校進学からアテネオリンピックまで
2004年4月、青森山田高等学校に進学。
日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選でシングルス3位となり[21]、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取り、史上最年少の15歳で出場した(他の出場者は梅村礼、藤沼亜衣。
なお、小西杏と組んで挑んだダブルスは予選で敗退)。
長嶋茂雄の代役として、聖火リレーの最終走者も務めた。
アテネ五輪では1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに辛勝、3回戦はガオ・ジュン(高軍)に圧勝、4回戦はキム・キョンア(金暻娥)に負けた。
福原の試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかっていない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得。
これはアテネ五輪放送の中でトップクラスの数字だった。
中国挑戦から北京オリンピックまで
2005年3月にはミキハウスとの契約が満了し、翌月グランプリとの契約を結ぶ。
グランプリは福原が青森山田高校に通うことを承認、中国リーグに2年連続で参加することも支援。
直後に、中国で最もレベルの高い中国超級(スーパー)リーグに参加、遼寧本鋼チームと契約した。
この超級リーグは週1、2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。
だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいたため、シングルスの出番が少なくダブルスが多かった。
期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場した。
8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行った。
2005年2月にはアジアカップで強豪の郭焱を破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場したが、リ・ジャウェイや帖雅娜といった強豪相手に快進撃を続け3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげた。
2006年5月には世界選手権ブレーメン大会で銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)を獲得した。
放送したテレビ東京の視聴率は最高12%を出した。
好調だった2006年度はチームを広東佐川急便に変えて超級リーグに参加(なお、チームの2006年度オーナー権を福原サイド(千秀企画)が買っている)。
父は高校卒業後の進路として当初、大学も青森山田学園系列の青森大学を考えていたが、福原本人が早稲田大学スポーツ科学部を強く志望し、2006年8月より書類提出、面接を経て9月13日に合格が決まった。
同学部による2年目の実施となるトップアスリート入学試験によるものであった。
2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し青森から東京の阿佐ヶ谷に引っ越した。
早稲田大学入学前「インカレなど大学の試合に出たい」との意向を示し、彼女の入学を受けて関東学連と日本卓球協会は、プロ選手が大学の大会に出場できるように事前に規約改正を行った。
しかし同年5月に行われた春季リーグでチームを一部昇格に導くことはできず、それ以降インカレ、リーグ戦に出場することはなかった(翌2008年春リーグから関東学生リーグは1部所属校を6校から8校と増やした。
)。
2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。
これについて父親が「大学進学で東京に住むこともあり、環境すべてを見直したかった」と説明した。
2007年5月の第49回世界卓球選手権個人戦では3回戦敗退。
大学の試合には2007年春リーグ以外出場しておらず、個人練習での強化に努めている。
2007年4月より『とっさの中国語』(NHK教育)にレギュラー出演した。
2008年1月、世界ランクが10位と、世界ランクの上位から1カ国・地域2名を上限とし上位20名に与えられる代表資格を獲得し北京五輪日本代表に内定した。
6月、JOCから日本選手団の開会式旗手に任命された。
卓球選手では初であり、最年少である。
本人は会見で「(団旗の)グラムの重さより、日本(代表としての)の重さをすごく感じると思う」と意気込みを話した。
五輪では平野早矢香、福岡春菜、福原の3人でシングルス、団体戦に出場した。
ロンドンオリンピックまで
2011年11月、ロンドンのエクセルで行われたロンドン五輪・テスト大会を兼ねたプロツアー・グランドファイナルにて石川と福原(右)
オリンピック凱旋パレード(2012年8月19日撮影)
その後よりレベルの高い試合で実戦感覚を養うことを目的として、2009年4月で早稲田大学卓球部での活動を休止し、海外で行われるITTFプロツアーを中心に出場。
日本国内ではサンリツ(物流会社)の卓球部の一員として日本リーグに参戦することになった。
そして、海外ツアーや中国のスーパーリーグ参戦を優先するため、および早稲田大学の単位の取得が困難になったために、2010年3月で早稲田大学を退学し、卓球に専念して2012年のロンドン五輪に臨む意向であることが関係者から明らかになった[22]。
2008年1月全日本卓球選手権で敗れた後、大学の授業にあまり出席できないこと、また2008年が五輪イヤーでもあることから関係者が福原の休学ないし中退を示唆していた(彼女は入学後も練習を早稲田大学では行わず青森や秋田で練習を続けた。
また五輪出場権獲得のために世界ランク高位を維持するため、海外の卓球ツアーに多く出場したため欠席も多かった)。
2011年5月、ロッテルダム世界選手権混合ダブルスにおいて岸川聖也とペアを組み、この種目では日本選手34年ぶりの銅メダルを獲得[23]。
大会終了後の5月16日付世界ランキングで日本人2番目の9位となり、ロンドンオリンピックシングルス出場権を獲得[24]。
2011年11月27日にはロンドン五輪と同会場で行われたテスト大会のプロツアー・グランドファイナルで石川佳純と女子ダブルスに出場して準優勝を収め、主戦場としてきたシングルス以外に活路を見出していた[25]。
そして2012年1月21日、東京体育館で開催された全日本選手権において、決勝戦で石川佳純を4-1で下し、13回目の挑戦にして念願の選手権を獲得している。
2012年は3月に開催された第51回世界卓球選手権団体戦(ドイツ・ドルトムント)に石川佳純、平野早矢香、藤井寛子、石垣優香と共に日本代表として出場するも、準々決勝で大韓民国代表にフルセット(2-3)の末に敗れてメダルを逸してしまった[26]。
7月に開催されたロンドンオリンピック卓球競技では、女子シングルス戦では第5シードとして3回戦から登場し、アンナ・チホミロワ(ロシア)を4-0と退け、4回戦ではジエ・リー(オランダ)に対し、ゲームカウント1-3と追い詰められたが、そこから3ゲームを連取して4-3でオリンピックでは自身初の準々決勝進出を達成。
準々決勝では世界ランク1位の丁寧と対戦して、第1ゲームでは先にゲームポイントを迎えたが、これを取れず、結局0-4で敗れた。
団体戦には平野早矢香、石川佳純と共に出場。
1回戦アメリカ、準々決勝ドイツを破った後の準決勝シンガポール戦では第1戦目でシングルス銅メダリストの馮天薇を3-1で破った。
続く2戦目の石川のシングルス、3戦目の石川・平野ペアのダブルスも日本が勝ち、日本勢オリンピック史上初の決勝進出を果たす。
決勝戦で中国に0-3で敗れ2位となったが、日本卓球史上初となる銀メダルを獲得した。
リオデジャネイロオリンピックまで
ロンドンオリンピック終了後、8月24日に前年夏に故障した右肘滑膜ひだ障害の手術に踏み切った。
また、故障を抱えながら出場した2012年3月の世界選手権(ドイツ・ドルトムント)やオリンピックなど、歴戦の疲労も蓄積していたので、手術箇所の治療や疲労回復などを目的に9月から10月は休養を続けた[27]。
11月から練習を再開し、12月6日に杭州で開催されたITTFワールドツアー・グランドファイナルで復帰したが初戦の2回戦で陳夢(中国)に敗れた[28]。
2013年には平成24年度天皇杯・皇后杯全日本卓球選手権大会に出場、今大会はヒジ手術からの休養明けを考慮して女子シングルスのみの出場であったが、ブランクを跳ね返す試合運びで勝ち進み、前年同様に石川佳純との対戦になった決勝ではゲームカウント1-2の劣勢から3ゲームを連取する逆転勝ちを収めて2年連続優勝を飾った[29]。
2013年の第52回世界卓球選手権個人戦では、世界ランク166位の朴晟恵(大韓民国)に緒戦で当たり、2-3の逆転負けを喫した[30]。
6月の荻村杯ジャパンオープンでは女子シングルス決勝で文玄晶(大韓民国)に4-0で勝利し、日本女子選手として初となる荻村杯優勝を果たした[31]。
2014年の全日本卓球選手権大会女子シングルスにて、準決勝で森さくら(昇陽高)にストレートで敗れた[32]。
敗戦後、左第5中足骨の疲労骨折を発症したため、自国開催(日本・東京)の第52回世界卓球選手権団体戦を欠場した。
6月13日の韓国オープンから公式戦に復帰する[33]。
荻村杯の女子ダブルスでは若宮三紗子とのペアで出場し、決勝で前年の世界選手権銅メダルペアの馮天薇、于梦雨組(シンガポール)を破り優勝。
9月、仁川アジア大会の団体戦決勝で中国と対戦し、チームは敗れて準優勝だったが、自身は第1戦で丁寧から初勝利をあげた[34]。
2016年8月のリオデジャネイロオリンピックでは女子最年長で代表に選出。
シングルスでは準々決勝でシンガポールの馮天薇を破り初の準決勝進出。
しかし、準決勝では中国の李暁霞、3位決定戦では北朝鮮のキム・ソンイに敗れシングルスでのメダル獲得を逃した。
団体戦では全試合で伊藤美誠とダブルスを組み出場。
準決勝ドイツ戦ではシングルス3位決定戦を終えた翌日から足に痛みを訴え骨膜炎と診断された[35]、その影響で黒星を重ねてしまい2大会連続の決勝進出を逃してしまったが、3位決定戦のシンガポール戦ではダブルスで1勝を挙げ2大会連続となる銅メダル獲得に貢献した。
リオデジャネイロオリンピック終了後の2016年9月1日に中華民国の卓球選手:江宏傑と国際結婚(入籍)[36]。
この件についてリオデジャネイロパラリンピック終了後の9月21日に東京都内で夫妻ツーショット記者会見を開いて正式に発表した[37]。
現役引退、そして今
引退後のELLEのグラビア
リオデジャネイロオリンピック以降は選手として公式戦に出場することは一度もなく、2017年1月の全日本卓球選手権大会も欠場した[38]。
2017年6月29日、第1子妊娠を報告[39]。
同年10月13日朝、2995gの女児を出産[40]。
2018年10月21日、自らのブログを更新して「若手が育ってきたこと、選手ではない違う立場で次のステップへ進みたい」などと語り、現役を引退することを表明した[5]。
その2日後の10月23日に東京都内に於いてプレスインタビューに応じ、自ら引退に至った理由などについて語った[41]。
2018年12月5日、第2子妊娠を報告[42]。
2019年4月3日、第2子男児(長男)を出産[43]。
2021年2月10日、小学校時代の友人と、社会貢献活動のための会社omusubiを設立した[44]。
2021年7月8日、江宏傑との離婚が成立したことが発表された[4][45]。
2021年11月4日、青森大学の客員准教授を委嘱される[46]。
2022年1月27日、ワールドテーブルテニスジャパンのジェネラルマネージャー(GM)に就任[47]。
略年譜
1988年(昭和63年)11月-宮城県仙台市にて誕生
1992年(平成4年)8月-卓球の練習をはじめる
1998年(平成10年)7月-大阪府八尾市に転居(9歳)。
ミキハウスJSC(ジュニアスポーツクラブ)に所属。
1999年(平成11年)3月-日本卓球協会の理事会で承認され、レジスタードプロに登録(3月20日付け、10歳)
2005年(平成17年)4月-グランプリと所属契約。
(4年) 中国超級リーグに参加、遼寧省チームに入団(4月に契約、6月-12月まで中断をはさみ試合)
2006年(平成18年)
3月-中国スーパーリーグ、広東佐川急便チームに移籍(3月に契約、6月-8月まで試合)
8月-早稲田大学のスポーツ科学部トップアスリート入学試験に出願
9月13日-早稲田大学スポーツ科学部に合格
2007年(平成19年)
3月1日-青森山田高等学校卒業
4月1日-早稲田大学スポーツ科学部入学
4月3日-全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表
2010年(平成22年)3月-早稲田大学スポーツ科学部自主退学
2012年(平成24年)
1月-全日本選手権・女子シングルス初優勝
8月-ロンドンオリンピック女子団体で銀メダル獲得
2013年(平成25年)
1月-全日本選手権・女子シングルス2年連続優勝
6月-荻村杯ジャパンオープン女子シングルス優勝
2015年(平成27年)
3月-スペインオープン・女子ダブルス優勝ダブルスパートナー日本生命若宮三沙子選手
6月-オーストラリアオープン・女子シングルス優勝
7月-韓国オープン・女子シングルス優勝
8月-チェコオープン・女子シングルス優勝
2016年(平成28年)
8月-リオデジャネイロ・オリンピック・女子シングルス4位
8月-リオデジャネイロ・オリンピック・女子団体で銅メダル獲得
9月-卓球選手の江宏傑(中華民国)と国際結婚、東京都内で婚姻届を提出し[36]、共同記者会見で正式発表[37]。
2017年(平成29年)
6月29日-第1子妊娠を報告[39]。
10月13日-第1子女児を出産[48]。
2018年(平成30年)
7月1日-Tリーグ理事に就任[49]。
10月21日-現役引退を表明[5]。
12月5日-第2子妊娠を報告[42]。
2019年(平成31年)
4月3日-第2子男児を出産[43]。
2020年(令和2年)
7月8日-Tリーグ理事を退任[50]。
2021年(令和3年)
7月8日-離婚成立を発表[4]。
11月4日-青森大学の客員准教授を委嘱される[46]。
2022年(令和4年)
1月27日-ワールドテーブルテニスジャパンのジェネラルマネージャー(GM)に就任[47]。
プレースタイル
右利き前陣速攻。
中国卓球の経験を積んでいる事から、中国スタイルのペースの速い卓球である。
2012年のロンドンオリンピックに際しては、課題とされていた下半身を中心とした筋力強化やフォアハンドの改善に取り組み[51]、その成果が出たと評価されている[52][53]。
小さい頃から天才少女と言われてきた理由の一つに、同世代の国内選手には負けなかった事がある。
中1で全日本ジュニア(高校以下)を制すとその後3連覇。
どの大会でも一度も負けなかった。
だが2006年8月のインターハイ、シングル決勝で同じ年齢の宇土弘恵(就実)に初めて負けを喫した(ストレート負け)。
また、国際大会では世界の強豪相手に善戦して世界ランクを上げており、団体戦においても中国選手から勝利を収めてはいるが、国内大会の一般の部ではシングルの優勝が少なく、人気の割に実績が乏しいという印象を与えていた。
全日本卓球選手権でも長年ベスト4を超えられず不本意な成績を残していたが、2012年1月、成長著しい連覇のかかった石川佳純を決勝で下し、ようやくシングルのタイトルを獲得した。
なお、全日本の他の出場可能な部門(バンビ・カブ・ホープス・カデット13歳以下・カデット14歳以下・カデットダブルス・ジュニア・女子ダブルス・混合ダブルス)ではすべて優勝しており、史上初の全日本グランドスラム達成者となった。
マネジメント
福原の両親は福原に徹底的に卓球の英才教育を施した。
3歳から卓球を始めて選手時代の練習時間は毎日4-5時間から7-8時間はこなしており、休みは年に3日程度であった。
マネージメントは父親が行っていたが2008年以降母親と兄が行っていた。
2004年度末まで日本代表監督の西村卓二から熱血指導を受けてきたが、その後代表監督となった近藤欽司から指導を受けた。
現役当時には元中国チャンピオンなど専属の中国人を招聘して住み込みでコーチとして契約し、カットマン専門のコーチなど常に福原と帯同する形を採っていた。
また頻繁に中国合宿を繰り返し、中国の技術を体に染み込ませ、コミュニケーションのため中国語も身につけた。
コーチが瀋陽出身であったことから福原の中国語には東北官話訛りがあり、そのことも中国で福原が人気を集める要因の一つになっている[54]。
人物
幼少時から天真爛漫な笑顔でお茶の間の人気者となっていたが、思春期になるにつれメディアに対し喋りたがらないことが増え、悲しそうな表情をすることも多くなった。
福原自身は、当時を振り返って、「周りのこととか、卓球以外のことが見えてきていた」と語っている。
中学2年生頃から、徐々に再び笑顔を見せるようになり、インタビューにもきちんと答えるようになった。
幼児期を除いて試合後、泣くことはほとんどなく、また勝って泣いたことは一度も無かった。
しかし2008年2月の世界選手権広州大会、予選の韓国戦では5番手でフルゲーム、デュースの末に勝利して一位通過を決め、福原は珍しくメンバーとともに号泣し、喜んだ。
2007年12月、眼鏡をかけて成田空港に現れ、遺伝により乱視になったことを告白した。
本人はコンタクトレンズにしたかったようだが、20分ではずしてしまうほどコンタクトレンズが合わず、眼鏡にしたとのこと。
福原も「ぼやけて見えた世界が当たり前だったので、眼鏡をつけるとスッキリする」と視界不良を認めている。
ただ視力自体は1.5-1.0と悪くない[55]。
子供には卓球選手であったことと中国語が流暢であることを秘密にしており、日本語で話しかけるように言っているとのこと[56]。
両親との関係
福原にとって、両親は親というよりも卓球のコーチであった[57]。
父親は「福原愛は娘であるけれども、自分の子どもじゃないという感覚がある」としており、母親も泣きじゃくる福原を容赦なく怒鳴りつけた。
1998年に父親の経営していた不動産会社が倒産し、一家は1億4000万円の借金を負うこととなった[57]。
そのため、当時小学生ながら企業とスポンサー契約していた福原は、一家の家計を担う大黒柱であった。
2004年に両親は離婚した。
その後も父親は福原に頼っていたが、2009年に「これ以上、父に振り回されてはダメだ」と決意し、兄を介して絶縁した[57]。
こうした家庭環境から、「普通の家庭」を経験できなかったとされる。
中国での評価
中国での福原への関心は高く、Yahoo!の中国サイトが2005年4月に発表した世界卓球8大美女に福原愛が選ばれた(他には張怡寧、王楠、白楊、リ・ジャウェイなど。
日本人では他に柏木有希が選ばれている)[58]。
当時の小泉純一郎首相の靖国神社問題などで、中国では反日感情が高まり日本に冷たい態度を示すことが多かったが、そんな中で福原のニュースを中国英字紙チャイナデイリーは2006年3月16日付紙面の1面トップで、卓球の中国超級リーグの広東省チームに移籍した日本人選手、福原愛のカラー写真を掲載した。
写真は赤いユニフォーム姿の福原が地元の子供達に囲まれ笑顔を見せているもので、福原を「著名な日本の卓球選手」と好意的に紹介した。
福原は日本の中国大使館を何度か表敬訪問しており、「中日友好」の色紙を持って王毅駐日大使(当時)と撮影に応じた。
他にも日中友好関連のイベントに招かれている。
2008年2月の第49回世界卓球選手権団体戦では、「福原愛永遠支持」と横断幕を掲げた十数人の中国ファンが応援したり、日本ー韓国戦で福原が5番手で登場し接戦をものにした試合を中国メディアは「福原選手が大逆転演じる」(成都日報)、「感涙の福原愛『観客が力くれた』」(新浪体育)、「みんな福原愛ちゃん大好き」(斉魯晩報)など、福原を中心に見出しや記事を構成した。
また、インタビューを「中国語も英語も流暢で立派だ」と褒め称えるところもあった。
(斉魯晩報)
同年4月には「福原愛は現在、日本のナショナルトレーニングセンターで北京五輪に向けて積極的にトレーニング中」と中国誌が報じた。
上海万博事務協調局は24日、2010年の上海万博の日本親善大使に卓球の福原愛選手ほか2名に決定したことを発表した。
同年4月26日の聖火リレー(長野市)では、当初日本オリンピック委員会からの出走依頼はなかったが、中国側から中国大使館枠で参加を要請され、走った。
福原の走る姿は中国でも新聞の一面などで大きく報じられた。
同年5月7日、胡錦濤国家主席が来日し、早稲田大学で特別講演した折に大学構内で卓球対戦した。
胡錦濤に随行していた中国チャンピオンの王楠も参加。
同席した日本の福田康夫首相も卓球に誘われたが不得手だということで断ったため、4人のダブルスではなく3人の変則卓球となった。
この模様は日中両国で報道された。
胡錦濤は福原に「あなたは私のことを知らないかも知れないが、私はあなたのことを知っている」と話しかけた[59]。
同年9月27日、山東省煙台市沖の豪華客船で行われた王楠の結婚式に、王楠の介添え役(中国のメディアは「伴娘」と表記)として、セクシーなベアトップのドレス(中国のメディアは「性感低胸装」と表記)を装って出席した。
中国のメディアは、このニュースを大きく報道した。
王楠夫妻は既に2005年10月に結婚していたが、北京五輪の為に式をあげていなかった。
なお、新郎の介添え役は当初王皓が務める予定だったが彼の試合があったために馬琳が行った。
中国でのニックネームは、"磁器人形"という意味の「瓷娃娃[60][61]」(ツーワーワー)(英語化されると"Japanesedoll"[62])、または、日本語の「愛ちゃん」を音訳した「爱酱[63](愛醤)」(アイジャン)や、意訳した「小爱[64](小愛)」(シャオアイ)、「泣き虫愛ちゃん」に相当する「愛哭鬼小愛」[65]など。
夫・江宏傑との離婚協議の報道が出ても、反台湾感情もあり福原を応援する中国人ファンが多くいた[66]。
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。
事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。
(2011年5月)
時期により体重の増減が大きい(練習量が多く、その分食べるため)。
大きな大会が始まると緊張、疲れから食が進まなくなり痩せてしまうため、大会前は多少体重を増やして臨むことが多い。
ベストは48キロ。
母親は小さい頃、食が細いのを心配したという。
NHKの2004年正月の番組で足型を取ったところ、扁平足であった。
足のサイズは24cmで本人はもっと身長が伸びると思っていたが中3で成長は止まってしまったという。
公称155cm。
座右の銘は「よく寝て、よく食べ、よく笑う」だったが、2006年に兄から変更を促され「一意専心」に変わった。
子供好きだが、小、中学生ぐらいの大きな子は苦手と話している。
卓球以外のスポーツは苦手で、高校の時、体育は好きな教科ではなかったという。
小さい頃は水泳教室にも通っていて、親は卓球と水泳のどちらに専念させるか考えていた時期があった。
ランニングが苦手だったが、2005年以降ランニングなども強化し、筋力をつけスピード、パワーのアップを図っている。
スコートをたまに履くことがあり、2006年1月の全日本選手権ダブルスで小西と共にスコートを履いた。
同大会ではベスト4まで進出したものの、「試合に集中できない」というコメントを出した。
アニメ「こてんこてんこ」で彼女の演じた役はその後かないみかが演じた。
大阪は2008年度五輪開催地として正式に立候補し、さまざまな招致活動を行ったが(大阪オリンピック構想)、福原愛を誘致のシンボルの一つとした(福原が大阪に引っ越した一つの要因ともされる)。
大阪は大阪五輪の盛り上げの一環として、2001年に世界卓球選手権シングル、団体(同時開催)を大阪に誘致し、福原愛もエキシビションとして桂三枝(現・六代桂文枝)とオープニングマッチを行なうなどして盛り上げた。
2004年1月の「クロアチアオープン」の最中に39度の高熱になった。
アテネ五輪では家族が大量のおにぎりを会場に持参したが、入り口のセキュリティ・チェックで「爆弾ではないか」と係員に一時引き止められた。
2004年10月、埼玉県彩の国まごころ国体では、会場のウイング・ハット春日部(客席3,500人)に連日5,000人もの客がつめかけ、国体初の入場規制がされることもあった。
2006年の「世界卓球選手権シンガポール戦では強豪リ・ジャウェイを下し予選リーグ通過を決めた。
秋田県湯沢市の稲住温泉敷地内に、卓球道場「友誼館」が完成し、2006年10月26日公開開始。
移築してあった旧秋ノ宮村役場(白井晟一設計の建造物)を改装した[67]。
2007年-2008年の年末年始に急性胃腸炎で入院した。
2008年6月、北京五輪選手で「さわやかな汗がもっとも似合う人」女子1位に選ばれた[68]。
2008年9月、東京代々木体育館で、不審な男に追い掛け回されるハプニングがあった。
男は婚姻届を持ち福原にサインを迫ったが、早大卓球部監督の機転で難を逃れた。
2016年夏季オリンピックにおける東京オリンピック構想のイメージキャラクターの1人として、都営バスの一部車両に福原が描かれたラッピング車両が存在した。
バドミントンの藤井瑞希とは青森山田高校で同級生で出席番号(五十音順)も近いこともあって仲が良く、2012年のロンドンオリンピックで藤井瑞希・垣岩令佳ペアが銀メダルを獲得した際には選手村の宿舎で号泣しながら出迎えた(藤井とペアを組んでいた垣岩令佳も高校の後輩にあたる)。
幼少期に「ルックルックこんにちは」に出演した際、岸部シローらが馬鹿騒ぎばかりしたため「うるさい」と怒鳴った(放送時の東京新聞の芸能欄の投書から)。
戦歴
1992年8月-3歳で初めてラケットを握る。
1993年9月-全日本卓球選手権大会・バンビの部(8歳以下の部)ベスト16
1994年9月-全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
1995年9月-全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
1996年9月-全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
1997年8月-東アジアホープス大会(日本代表)
1997年9月-全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
1997年11月-全日本卓球選手権大会・カデットの部(13歳以下の部)優勝(小3)
1998年7月-大阪に転居。
ミキハウスJSCに所属。
1998年8月-東アジアホープス大会(日本代表)
1998年9月-全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
1998年11月-全日本卓球選手権大会・カデットの部(14歳以下の部)ダブルス優勝・シングルス準優勝
1998年12月-全日本卓球選手権大会・一般の部ダブルスベスト32(史上最年少出場)、ジュニアの部(17歳以下の部)シングルス準優勝(史上最年少出場)
1999年3月20日-レジスタードプロに登録
1999年8月-東アジアホープス大会(日本代表)シングルスベスト8
1999年9月-全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝
1999年11月-全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)準優勝
1999年12月-全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト4、一般の部シングルスベスト64(史上最年少出場、最年少勝利)
2000年6月-ジャパンオープン(日本代表)シングルスベスト64、ダブルスベスト32日本代表初出場(小6)
2000年9月-全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝(7連覇)
2000年11月-全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)優勝
2000年12月-全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト32
2001年1月-第30回後藤杯選手権女子シングルス優勝(一般の部でのシングルス初優勝)
2001年4月-東アジアホープス大会(日本代表)団体2位、シングルス3位
2001年6月-中国オープン決勝トーナメント進出
世界ランク:126位
2001年9月-ジャパンオープンシングルスベスト16、ダブルスベスト8
世界ランク:98位
2001年12月-デンマークオープンシングルスベスト8、ダブルスベスト8
世界ランク:67位
2001年12月-全日本卓球選手権ジュニアの部優勝、一般の部シングルス7位、ダブルス3位
2002年8月-全国中学校卓球大会女子シングルス優勝
2002年9月-ジャパンオープンダブルスベスト8
2002年10月-釜山アジア大会女子団体銅メダル
2002年12月-全日本卓球選手権ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
2003年2月-アジア選手権女子ダブルス準優勝
2003年3月-日本卓球リーグ実業団連盟ドリームチャレンジカップ女子シングルス優勝推薦参加
2003年5月-第47回世界卓球選手権個人戦シングルスベスト8
2003年8月-全国中学校卓球大会シングルス優勝
2003年9月-アジアジュニア卓球選手権大会女子団体ベスト4、ダブルスベスト4
2003年9月-中国オープン3回戦敗退
2003年9月-ジャパンオープン3回戦敗退
2003年11月-ドイツオープンシングルス(アンダー21)優勝
2003年11月-スウェーデンオープンシングルス(アンダー21)優勝
2003年12月-第1回世界ジュニア選手権大会(チリ)ダブルス銅メダル、シングルスベスト8
2004年1月-全日本卓球選手権女子ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
2004年3月-第47回世界卓球選手権団体戦女子団体銅メダル
2004年4月-アジア大陸オリンピック予選シングルス3位(アテネオリンピック出場決定)
2004年8月-アテネオリンピックシングルスベスト16※(直後の世界ランキングwr19位に、初の10位台)次項に詳述あり
2004年10月-国体優勝 少年女子団体の部、青森県代表として(埼玉)
2004年12月-世界ジュニア卓球選手権大会2004神戸大会
女子シングルス3位
混合ダブルス3位
女子団体準優勝
2005年1月11~16日、全日本卓球選手権大会
女子シングルス6回戦敗退
女子ダブルス優勝
混合ダブルス優勝
2005年2月-ジャパントップ12卓球大会準優勝
2005年3月12・13日-第17回女子アジアカップシングルス準優勝※(直後の世界ランキングwr32→wr23へ大幅アップ)
2005年3月28日-高等学校選抜卓球大会団体戦準優勝(青森山田高校)
2005年3月31日-ミキハウスジュニアスポーツクラブ満期終了、一時フリーになる
2005年4月1日-中国スーパーリーグ遼寧省チーム入団(一年契約)
2005年4月11日-グランプリと4年契約を結ぶ
2005年4月30日~5月6日-第48回世界卓球選手権上海大会
女子シングルス3回戦敗退
女子ダブルスベスト8
混合ダブルス3回戦敗退
2005年9月-アジア卓球選手権、ダブルスで銅メダル、ペアは藤沼
2005年10月-国体2連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(岡山)
2005年11月-ITTF女子ワールドカップ3位(銅メダル)中国広州※(直後の世界ランキングwr25→wr16へ大幅アップ)
2006年1月-全日本卓球選手権大会
女子シングルスベスト8
女子ダブルスベスト4
混合ダブルス準優勝
2006年2月-ジャパントップ12卓球大会準優勝
2006年3月5日-第19回グランプリアジアカップシングル5位
2006年3月15日-超級リーグ広東チームへの移籍契約調印を行う
2006年4月9日-日本卓球リーグ実業団連盟ビッグトーナメント女子シングルス優勝(推薦参加)
2006年4月24日-5月1日-第48回世界卓球選手権ブレーメン大会
女子団体銅メダル
2006年6月-ITTFワールドツアー台湾オープンダブルス優勝ツアーでは初の優勝、ペアは藤沼
2006年8月7日-11日-インターハイ
女子団体 準優勝
女子シングルス 準優勝
女子ダブルス 優勝
2006年9月-ITTFワールドツアージャパンオープンダブルス銅メダル
2006年10月-国体優勝3連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(兵庫)
2007年1月-平成18年度全日本卓球選手権大会
女子シングルス ベスト16
女子ダブルス 4回戦(初戦)敗退
混合ダブルス 優勝(坂本竜介ペア)
2007年2月10日-ジャパントップ12卓球大会準優勝
2007年4月8日-ビッグトーナメント初戦敗退
2007年4月30日-5月6日-第49回世界卓球選手権ザグレブ大会
女子シングルス3回戦敗退
女子ダブルス2回戦敗退
混合ダブルス3回戦敗退
2007年10月-ITTFワールドツアーオーストリアオープンダブルス優勝(平野早矢香とのペア)ツアーでは2度目の優勝(ダブルス)
2008年1月-平成19年度全日本卓球選手権大会
女子シングルス ベスト16
女子ダブルス 優勝(照井萌美とのペア)
混合ダブルス 準決勝敗退(坂本竜介ペア)
2008年2月9日-ジャパントップ12卓球大会ベスト4
2008年2月-第49回世界卓球選手権広州大会
女子団体銅メダル
2009年1月-平成20年度全日本卓球選手権大会
女子シングルス ベスト4
2009年2月-ジャパントップ12卓球大会準優勝
2009年7月ITTFワールドツアーモロッコオープン
女子シングルス優勝ツアーでは初の優勝(シングル)
女子ダブルス優勝(石川佳純ペア)ツアーでは3度目の優勝(ダブルス)
2009年11月-第19回アジア卓球選手権大会混合ダブルス3位
2009年12月-東アジア競技大会女子ダブルス優勝
2010年2月-ジャパントップ12卓球大会準優勝
2010年3月-ITTFワールドツアーハンガリーオープン
女子ダブルス優勝(石川佳純ペア)ツアーでは4度目の優勝(ダブルス)
2010年10月-ITTFワールドツアードイツオープン
女子ダブルス優勝(石川佳純ペア)ツアーでは5度目の優勝(ダブルス)
2011年1月-平成22年度全日本卓球選手権大会
女子シングルス ベスト4
2011年4月-日本卓球リーグビッグトーナメント石川大会
女子シングルス優勝
2012年1月-平成23年度全日本卓球選手権大会
女子シングルス優勝(初)
2013年1月-平成24年度全日本卓球選手権大会
女子シングルス優勝(2)
2013年4月-日本卓球リーグビッグトーナメント愛媛大会
女子シングルス優勝
2013年6月-ITTFワールドツアー荻村杯ジャパンオープン
女子シングルス優勝 ツアーでは2度目の優勝(シングル)単では日本人として初の優勝者である。
2013年11月ーITTFワールドツアードイツオープン
女子シングルス準優勝
女子ダブルス準優勝(若宮三沙子パートナー)
2014年1月-平成25年度全日本卓球選手権大会
女子シングルスベスト4
2014年6月-ITTFワールドツアー荻村杯ジャパンオープン
女子ダブルス優勝(若宮三紗子ペア)ツアーでは6度目の優勝(ダブルス)
2014年8月-ITTFワールドツアーチェコオープン
女子シングルス準優勝
女子ダブルス優勝(若宮三沙子パートナー)ツアーでは7度目の優勝(ダブルス)
2014年9月-仁川アジア大会
女子団体準優勝
混合ダブルスベスト4
2015年3月-ITTFワールドツアースペインオープン
女子ダブルス優勝(若宮三紗子ペア)ツアーでは8度目の優勝(ダブルス)
2015年5月-ITTFワールドツアーフィリピンオープン
女子シングルス準優勝
2015年6月-ITTFワールドツアーオーストラリアオープン
女子シングルス優勝ツアーでは3度目の優勝(シングルス)
2015年7月-ITTFワールドツアー韓国オープン
女子シングルス優勝ツアーでは4度目の優勝(シングルス)
2015年8月-ITTFワールドツアーブルガリアオープン
女子シングルス準優勝
2015年8月-ITTFワールドツアーチェコオープン
女子シングルス優勝ツアーでは5度目の優勝(シングルス)
2016年3月-第53回世界卓球選手権団体戦女子団体銀メダル
オリンピックでの対戦成績
アテネオリンピック女子シングルス
2回戦-オーストラリアのミャオ・ミャオと対戦し、4-3で勝利。
3回戦-アメリカのガオ・ジュン(世界ランク12位)と対戦し、4-0で勝利。
4回戦-韓国の金暻娥(世界ランク6位)と対戦し、1-4で敗退。
8強ならず。
北京オリンピック女子シングルス
3回戦-トルコの侯美玲(世界ランク80位)と対戦し、4-1で勝利。
4回戦-中国の張怡寧(世界ランク1位)と対戦し、1-4で敗退。
8強ならず。
ロンドンオリンピック女子シングルス
3回戦-ロシアのアンナ・チホミロワと対戦し、4-0で勝利。
4回戦-オランダのジエ・リーと対戦し、4-0で勝利。
準々決勝-中国の丁寧と対戦し、0-4で敗退。
リオオリンピック女子シングルス
3回戦-ルーマニアのダニエラ・モンテイロドデアンと対戦し、4-0で勝利。
4回戦-北朝鮮の李明順と対戦し、4-0で勝利。
準々決勝-シンガポールの馮天薇と対戦し、4-0で勝利。
準決勝-中国の李暁霞と対戦し、0-4で敗退。
3位決定戦-北朝鮮のキム・ソンイと対戦し、1-4で敗退。
成績
※最高成績
シングルス
オリンピックベスト4(2016)
世界卓球選手権ベスト8(2003)
ワールドカップ銅メダル(2005)
ITTFワールドツアー・グランドファイナルベスト4(2010)
ダブルス
世界卓球選手権ベスト8(2005,2009,2013)
ITTFワールドツアー・グランドファイナルベスト8(2007,2010,2014)
混合ダブルス
世界卓球選手権銅メダル(2011)
団体戦
オリンピック銀メダル(2012)
世界卓球選手権銀メダル(2016)
ワールドカップ銀メダル(2011,2013)
対戦成績
ITTF公式戦における主要選手とのシングルス対戦成績[69]。
太字は最高世界ランク1位の選手
対戦数の多い選手
馮天薇4-14
帖雅娜4-12
郭躍4-8
李暁霞1-11
金暻娥1-11
黄怡樺11-0
リ・ジャウェイ7-4
劉詩雯1-9
梁夏銀8-2
クリスティナ・トート10-0
その他の主要な選手
王楠0-6
張怡寧0-6
郭焱1-7
丁寧1-6
朱雨玲0-3
平野早矢香4-1
石川佳純1-5
伊藤美誠2-0
平野美宇3-0
世界ランキング
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
2001年
255
251
251
248
126
127
123
102
98
67
65
2002年
60
75
74
74
67
76
67
68
74
79
85
2003年
84
86
89
91
91
54
58
58
57
47
46
38
2004年
32
30
25
25
25
26
27
27
21
19
21
25
2005年
29
30
23
24
24
24
25
25
24
23
25
2006年
17
19
17
16
16
14
14
14
16
16
15
2007年
13
15
11
12
11
12
12
12
12
12
10
10
2008年
10
9
9
11
13
12
12
12
12
13
17
16
2009年
21
21
27
31
31
29
28
24
23
24
21
22
2010年
21
15
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受賞など
1993年-功労賞(日本卓球協会)
1994年-未来賞(ミロ[要曖昧さ回避]スポーツ大賞)
1995年-日本スポーツ賞(読売新聞社)、特別奨励賞(宮城県体育協会)
1996年-奨励賞(宮城県体育協会)、感謝状(兵庫県卓球協会)、感謝状(ライオンズクラブ)
1997年-奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会)
1998年-奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会)
2003年-第5回王国大賞、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(卓球王国)
2004年
第4回日本卓球人賞
2月2日-イタリア・テルニの親善大使を委嘱された。
2005年1月-夢見る女の子大賞(ロッテ主催)
2011年3月2日-仙台観光アンバサダー(親善大使)の初代大使を委嘱された(任期:2年)[70][71]。
2012年
9月10日-賛辞の盾(仙台市)[72]
9月22日-杉並区スポーツ栄誉賞
10月4日-宮城県特別表彰[73]
2013年4月17日-仙台観光アンバサダーを再委嘱された(任期:2年)[74]
2014年-第43回ベストドレッサー賞(スポーツ部門)[75]
2016年-第3回Yahoo!検索大賞パーソンカテゴリアスリート部門賞[76]
2017年-第28回日本ジュエリーベストドレッサー賞特別賞[77]
2017年-BLOGoftheyear2016[78]
2018年-報知プロスポーツ大賞特別功労賞
主な出場イベント
2000年4月4日、東京ドームで日本ハムの始球式を務める。
2004年1月、ミキハウスの毎年恒例の新年会に最後の参加をした(ゲストは星野仙一)。
同年6月、ミキハウスの五輪壮行会に参加、同年6月6日には新宿で2004年アテネオリンピックの聖火リレーの日本国内での最終ランナーを務めた[79]。
同年10月20日、新宿、都庁前で一日警察署長を務める。
2005年2月、中国大使館を表敬訪問、卓球交流を行った。
同年3月2日、新潟県中越地震で被災した長岡市立南中学校を慰問、卓球交流[80]。
同年4月23日(反日感情が悪化していた時期)-中国大使館訪問、王毅駐日大使に表敬[81]。
同年5月14日-映画『KARAOKE-人生紙一重-』(グランプリ製作)の試写会にゲスト出演。
同年7月、「中国と日本60年の歩み」写真展(東京)ジャッキー・チェンとともにイベントに呼ばれる。
(福原は晴れ着で登場した。
同年9月、青森山田高校体育館で、幼稚園生を対象にこてんこてんこと気球イベント。
同年9月19日、愛・地球博の上海ウイークのイベントに出場した[82]。
同年11月20日、青森市でスペシャルオリンピックスのトーチランの伴走者を務めた。
2006年3月31日、北京市で行われた日中卓球交流50周年記念イベントに参加、同年10月11日、外国特派員協会の昼食に招かれインタビューに応じた[83]。
同年10月12日、全国旅館生活衛生同業組合連合会(全旅連)の「お宿親善大使」に選ばれた[84]
2007年5月、糖尿病対策の会見「グリコヘモグロビン認知向上運動」に出演[85]。
2008年3月24日、谷村新司、コシノジュンコとともに、上海万博のイメージ大使に選ばれた[86]。
2010年7月19日、上海万博の日本のPR大使として見学中に突然、気分が悪くなって倒れ、1時間余り休憩した後、貧血だったと話した[87]。
2012年9月22日、杉並警察署の一日警察署長を務めた[88]。
同年10月4日、日本製紙クリネックススタジアム宮城の楽天イーグルス対埼玉西武ライオンズ戦で始球式を務めた[89]。
2016年9月10日、新宿警察署の一日警察署長を務めた[90]。
テレビ出演
愛が見えた!泣き虫愛ちゃん14年の挑戦(2003年3月2日、フジテレビ)-特別番組。
福原を幼少から成長を追って取り上げたドキュメント。
司会は安藤優子。
視聴率は14.3%。
スポーツ大陸(2005年9月3日、NHK-BS1・BShi)-ドキュメンタリー番組。
同日放送回において、超級を中心に取り上げた。
NHK総合でも再放送。
アンテナ22(2006年1月16日、日本テレビ)
新春スペシャル対談未来に架ける橋(2006年1月、NHK-BS1)-谷村新司との100分に渡る対談番組。
こてんこてんこ(2006年1月、テレビ東京)-テレビアニメ。
妖精アイちゃん役として、声の出演。
とっさの中国語(2007年4月-9月、NHK教育)-2005年12月26日・2006年1月9日の2度にわたり同局で放送された『中国語会話』においてインタビューを受けたことなどがきっかけで、NHKの語学番組出演に関心を持つようになり、出演依頼を快諾した[91]。
番組では、共演者の盧思が「ネイティブ並み」と評する発音[91]で、その日のフレーズを紹介する役割を担う。
毎週5分という短さであるが、福原にとって初めてのレギュラー番組である。
福原の出演部分は時間的都合を考え、全25回分まとめ撮りされた[91]。
CM・広告
ハドソン[9]
日清オイリオ-2007年4月より放送。
また、福原の栄養サポートも行っている。
全日空-福原が中国の瀋陽で実際に好きなものをカメラで撮ってくるという企画があった。
1.SL編(自分で石炭も入れた)2.竹筒マッサージ、3.散髪編(自分で他人の散髪にも挑戦)、4.卓球練習場、の4種類が放送された。
『福原愛@瀋陽』[92]
『SL篇』
『竹筒マッサージ篇』
『体育学院篇』
『散髪篇』
企業CM
『ひまわり篇』
LIVE/中国線就航20周年/ANA
『卓球編』(2007年3月-)
全日空2017年旅割(ゴールデンウィーク)[93]
三井生命(現・大樹生命)
日本コカ・コーラ「アクエリアス」
Yahoo!BB
グランプリ
トヨタ自動車
佐川急便
グンゼ
永谷園「すし太郎」-和田アキ子と共演
クラシエホールディングス(2016年1月-)-クラシエグループ・コーポレートキャラクター[94][95]
クラシエホームプロダクツ「ナイーブピュア」
クラシエ薬品「クラシエの漢方かぜシリーズ」など
アサヒスーパードライ(2016年)-江宏傑と夫婦共演[96]
アース製薬「サラテクト」(2018年)-江宏傑と夫婦共演[97]
アテネ五輪の試合放送
アテネ五輪初戦当日、福原の試合は20時頃から始まったが当初生中継はされていなかった。
しかしテレビ東京は競泳の録画放送から彼女が2ゲーム取られピンチの状態から生中継を開始した。
30分程度の放送がされ試合途中で番組は終了した。
この試合ではフルゲームの末、逆転勝利した。
同日、NHK-BS1とNHK総合は23時頃から、TBSは0時頃から録画放送を開始。
その3局は他局と時間がかぶっているにもかかわらず、ノーカットで試合放送した。
次の3回戦はNHK、TBSが生放送をした(19:30-)。
NHKだけで平均視聴率は20.1%、勝利した瞬間の最高視聴率は31.9%という高視聴率をマークした(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。
NHKが「卓球の愛ちゃん人気の高さには驚きました」と話したように、この数字は各局に少なからぬ衝撃を与えた。
最終試合となった3試合目、4回戦は開始が0時頃だったが、これはフジが生放送。
2戦目に比べ数字の取りにくい時間帯だったが、これも高視聴率をマーク。
福原が敗れた瞬間の最高視聴率は22.7%(フジ:19日0時34分)。
2004年にマクロミルが調査した「アテネオリンピックで注目・期待する選手」についてのアンケートで北島康介と谷亮子に次いで3位となった[98]。
福原はメダルを取れなかったが、マスコミは他のメダリストとともに福原を番組に呼んでインタビューを繰り返した。
アテネ五輪で初めて福原の試合を見たという人が多く、その人たちには福原が出す「サーッ!」という声をはじめて聞くことになり、小さい頃は泣きながら卓球をやっていた少女が、あんなに元気よく声を出していることに感銘を受けた人も多かった。
各局のインタビューでは、必ず「サー」の質問がされ、「あれはサーなのか、ターなのか、シャーなのか」という論議がしばらく続いた。
『報道ステーション』(テレビ朝日)のインタビューでは「気合いです。
何て言ってるのか分からない。
」とコメントした。
声紋を機械にかけたところ、発音は「ター!」であることが判明した。
関連商品
PS2ゲームソフト『いくぜ!温泉卓球』(2000年12月21日、彩京)-小学6年の福原愛が対戦相手として登場
PS2ゲームソフト『福原愛の卓球一直線』(2005年、サクセス)-高校生の福原愛となって戦う。
体感ゲームシリーズ『愛ちゃんに挑戦!エキサイトピンポン』(2006年7月、エポック)-子供の福原愛と、高校生の福原愛と戦える。
ラケットにサインが印刷されている。
卓球ラケット「福原愛」(バタフライ)
卓球シューズ「WAVEFLORAAI」(ミズノ)
卓球練習マシーン「マシンガン愛I、II」(TSP)
卓球のレッスンDVDバタフライより発売されている。
中国の卓球選手ばかりが歌うラップ曲「乒乒乓乓天下无敌」に参加(2005年・2006年)
2006年度福原愛カレンダー(2005年12月、ANA)
ロッテ「LOTTELOTTERYチャンピオンズキャンペーン」チャンピオンフィギュ・福原愛Ver.(2006年)-キャンペーン懸賞として2頭身フィギュア作成
関連書籍・出版物
卓球レポート(1994年-)
小学一年生(1995年4月-1996年3月、小学館)-表紙
卓球王国(1996年-)-創刊号以来何度も表紙を飾り、インタビューも数多く取り上げられた。
月刊福原愛という1Pの記事があり、名称は何度か変わったが、小学生の頃から続いている企画がある。
愛ちゃんのあ。
(1997年10月、福原の母の著、リイド社)
AERA(2003年5月12日、朝日新聞出版)-表紙
福原愛物語(2004年8月4日、少年サンデーで漫画化、あおやぎ孝夫作)
愛は天才じゃない-母が語る福原家の子育てって?(2005年1月、生島淳著、三起商行)-母のインタビュー本
福原愛写真集「LOVEALL」(2005年3月、卓球王国)
「世界卓球」(2005年8月)-中国の卓球雑誌。
表紙や本編などで大きく取り上げられた。
スポーツのニューヒロイン〈2〉福原愛物語(2005年11月、本郷陽二著、汐文社)-子供向け
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^同年の9月17日から10月2日まで開催されたソウルオリンピックから、卓球が五輪正式種目になった。
^2008年5月4日に仙台市体育館で開催された、北京五輪壮行試合と日本リーグ・ビッグトーナメント仙台大会に出場した福原が、開始式で語った言葉より。
ただし、福原が誕生してからちょうど5か月後の1989年4月1日に仙台市が政令指定都市に移行して行政区が設置されたため、出生時に青葉区は存在していなかった。
なお、この大会には、福原のほかに仙台育英学園高等学校卒の平野早矢香および岸川聖也の両選手も出場し、仙台ゆかりの北京五輪卓球代表3人が揃って参加し賑わった。
^福原自身は、「誰からも愛されるように」との意味で命名された、というのは後付けだと語っている。
^東北新幹線は、1982年(昭和57年)6月23日に大宮-盛岡間で開通。
1985年(昭和60年)3月14日に上野-大宮間が延伸開業。
1991年(平成3年)6月20日に東京-上野間が延伸開業。
^エキシビションマッチでは5歳以降も泣いたことがある。
例えば1994年12月に開催された兵庫県城崎町の卓球イベントで試合中に泣き出した。
^翌1994年(平成6年)9月19日放送のフジテレビ「第4回明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」にも出演。
^小暮の山なりの叩きつけサーブに、幼少でまだ身長が低い福原は届かず、悔し泣きした。
^幼少の頃「天才卓球少女」としてTV出演をしていた時代の変わった卓球対戦相手にサッカーイラク代表の選手がいる。
その番組出演時には明石家さんまとも対戦した。
^2005年3月13日放送「おしゃれカンケイ」では、泣くところを撮られることよりも、泣くまで撮影が続けられたと語り、それについて嫌な思いをしたと発言している。
^小学生となった1995年(平成7年)にも、フジテレビ「なるほど!ザ・ワールド」出演時に、1000本ラリー中に泣き出したり、上海の小学校を訪問して卓球クラブの中国人小学生との対戦中に不利になって泣き出したりする姿が放送された。
^2001年4月から、日本卓球協会はレジスタードプロ制度をなくした。
これにより、以降は子供選手でも誰でもプロ(商業)活動が出来るようになっている。
出典
^福原愛Mizuno[リンク切れ]
^abPROFILEプロフィール(福原愛オフィシャルサイト)
^福原愛選手の大学中退、決断が「吉」と出るよう願う2010年3月16日exciteニュース
^abc“福原愛さん、江宏傑氏との離婚が成立「双方合意のうえで」 子どもは共同親権に”.ORICONNEWS(oriconME).(2021年7月8日).https://www.oricon.co.jp/news/2199566/full/2021年7月8日閲覧。
^abc“福原愛、3歳から握ったラケットを置く決意引退”(日本語).ニッカンスポーツ・コム.日刊スポーツ新聞社.(2018年10月21日).https://www.nikkansports.com/sports/news/201810210000915.html2018年10月21日閲覧。
^卓球・福原愛選手の父武彦さん死去71歳、旧大曲市出身(秋田魁新報2013年10月16日)
^abcdef卓球選手福原愛のお母さん 千代さん:1いつも泣いてたわけじゃない(朝日新聞2007年10月2日)
^<リオ五輪>愛ちゃん攻めろ!伯父ら声援(河北新報2016年8月10日)[リンク切れ]
^abcdefgh【卓球】15歳・愛ちゃん、大緊張初陣はフルセット激闘勝利(サンケイスポーツ2004年8月15日)
^福原愛×川嶋あいスペシャル対談(Yahoo!JAPAN、掲載期間:2016年8月2日-8月31日)
^abcdefghi1999年12月21日「福原愛が全日本選手権シングルスで最年少勝利した日」(日本テレビ「DON!」2010年12月21日)
^福原、自分の卓球記念日に単、複で完勝特別な日「感謝の気持ちでいっぱい」(デイリースポーツ2016年8月14日)
^悩み苦しみ20年…福原、悲願のメダルに笑顔(読売新聞2012年8月8日)
^<張本卓球場>愛ちゃん登場!新星と始球式(河北新報2016年8月29日)
^「リオデジャネイロ五輪2016」で紹介された情報(価格.com)
^卓球Report2007年7月号(タマス)
^最後は「泣き虫」愛ちゃん/27歳福原チーム牽引(東奥日報2016年8月17日)
^阿倍野地区の1路線(愛称「ピンポン通り」)を『防災コミュニティ道路』に認定しました(大阪市)
^“高校総体出場正式承認へ”.福原愛オフィシャルサイト(2005年3月4日).2010年8月14日閲覧。
^世界団体ドーハ大会、アテネ五輪アジア予選 福原愛、日本代表一番乗り!2003年9月28日
^“夢と感動と愛を与えた日本卓球界の偉人5人”.【SPAIA】スパイア(2016年7月23日).2020年11月14日閲覧。
^“福原愛が早大を中退大会などへ出場で単位の取得が困難に”.夕刊フジ(2010年3月5日).2010年3月5日閲覧。
^【世界卓球2011】5日目・岸川/福原、準決勝で敗れ銅メダルスポーツナビ2011年5月13日
^福原 シングルスで五輪切符!石川は初、男子は水谷&岸川スポーツニッポン2011年5月16日
^愛&佳純組ロンドン五輪本番会場で準Vスポーツニッポン2011年11月29日
^“日本女子、大激戦の末に韓国に逆転負け6大会連続のメダル逃す”.スポーツナビ(2012年3月30日).2012年3月31日閲覧。
^愛ちゃん手術正式発表「成長した姿を見て」スポーツニッポン2012年8月27日閲覧
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^愛、佳純下し2連覇!右肘手術から5か月「帰ってこられた」…卓球スポーツ報知2013年1月20日閲覧
^世界ランク166位の韓国選手相手に…福原愛、まさか逆転で涙産経新聞2013年5月16日閲覧
^福原愛が荻村杯初V女子単で日本選手初の快挙スポーツニッポン2013年6月23日閲覧
^福原、準決勝敗退で3連覇逃す 石川は決勝進出=卓球全日本選手権Yahoo!ニューススポーツナビ2014年1月18日閲覧
^“愛復帰戦でストレート勝ち!佳純も中国選手破り2回戦へ”.スポニチ.http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/06/14/kiji/K20140614008361470.html2014年7月27日閲覧。
^“卓球団体女子が銀、福原愛は世界2位倒す”.日刊スポーツ(2014年10月1日).2014年10月1日閲覧。
^“【卓球】福原愛、リオ五輪で足を負傷していたことを初告白 個人戦後に「骨膜炎」と診断”.報知新聞(2016年11月2日).2016年12月2日閲覧。
^ab福原愛結婚していた!交際公表の江宏傑と今月-日刊スポーツ、2016年9月8日閲覧
^ab“福原愛、結婚会見プロポーズは「鍵」「頭が真っ白」に”.産経フォト.産業経済新聞社.(2016年9月21日).https://www.sankei.com/photo/story/news/160921/sty1609210008-n1.html2016年10月7日閲覧。
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^福原愛、ブログで出産報告「陣痛を感じてから4日目にようやく赤ちゃんに会えました」-スポーツ報知(2017年10月13日14時37分)
^“福原愛「私が選手としていなくても」5月に引退決意”(日本語).ニッカンスポーツ・コム.日刊スポーツ新聞社.(2018年10月23日).https://www.nikkansports.com/sports/news/201810230000514.html2018年10月23日閲覧。
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愛ちゃんも元気です」”.SponichiAnnex(スポーツニッポン新聞社).(2019年4月8日).https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/04/08/kiji/20190408s00041000141000c.html2019年4月8日閲覧。
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[リンク切れ]
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^愛ちゃん交際 中国のファン「方言ネタ」で祝福 東北弁・台湾弁、rongzhang、withnews(朝日新聞社)、2016年04月09日配信、2016年04月12日閲覧。
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^雅虎幻灯 卓球界八大美女
^2008年8月9日号「熊本日日新聞」
^偷走了中國心的日本「瓷娃娃」福原愛(BBC中文網2016年8月11日)
^リオ五輪を終えた卓球の愛ちゃん、25年の軌跡を辿る(人民網日本語版2016年08月18日)
^TheJapaneseOlympianwhostoleChinesehearts(BBCNews2016年8月12日)
^偷走了中国心的日本“瓷娃娃”福原爱(英国放送協会2016年8月11日)
^中國怒:小愛要當「台灣媳婦」!(民報2016年4月11日)
^福原愛感情史豐富戀江宏傑用中文傳情(中央通訊社2016年4月6日)
^福原愛を溺愛し、台湾人の夫を罵倒する中国人の心理ニューズウィーク2021年6月22日閲覧。
^“愛ちゃん卓球場(=友誼館)とは?”.秋の宮温泉郷 稲住温泉.2012年1月22日閲覧。
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http://www.dreamnews.jp/?action_press=1&pid=0000002232
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^福原愛さん、仙台観光アンバサダーに就任(100万市民のみなさまへ)(仙台市2011年3月4日)
^「中国で一番知られている日本人」愛ちゃん 仙台観光大使に(スポーツニッポン2011年3月2日)
^約束通り、メダルとったよ 福原愛選手、被災小学校へ(朝日新聞2012年9月10日)
^ロンドンオリンピック卓球日本代表の福原愛選手に宮城県特別表彰授与(平成24年10月4日)(宮城県)
^観光親善大使に五輪銀メダリスト福原愛さんを再任仙台市(河北新報2013年4月18日)
^“今年のベストドレッサー賞は宮沢りえ、片岡愛之助、小山薫堂、福原愛、トヨタ社長ら”.FASHIONHEADLINE.(2014年11月28日).http://www.fashion-headline.com/article/2014/11/28/8632.html2014年11月28日閲覧。
^“りゅうちぇる、心霊写真の正体は“もののけ”「勘違いして寄ってきた」”.ORICONSTYLE.(2016年12月7日).https://www.oricon.co.jp/news/2082668/full/2016年12月7日閲覧。
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^“福新婚の平愛梨&ぺこ&福原愛がそろって受賞!「BLOGoftheyear」発表”.マイナビニュース.(2017年2月3日).http://news.mynavi.jp/news/2017/02/03/012/2017年2月3日閲覧。
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^“日本生まれ、中国育ちの「磁娃娃」 福原愛選手”.中国網(2005年).2015年10月18日閲覧。
^“会場リポート9月(その4)”.愛知県(2005年).2015年10月18日閲覧。
^“″愛ちゃん″特派員協会で講演”.ライブドアニュース(2006年10月11日).2015年10月18日閲覧。
^“「お宿親善大使」の愛ちゃん、全旅連を表敬訪問”.観光経済新聞社(2007年8月25日).2015年10月18日閲覧。
^“卓球の愛ちゃん、左手首にブレスレット”.オリコン(2007年5月14日).2015年10月18日閲覧。
^“日本イメージ大使、卓球の愛ちゃんら3人が選ばれる”.レコードチャイナ(2008年3月26日).2015年10月18日閲覧。
^“卓球の愛ちゃん、上海万博見学中に倒れる=激戦の疲れが原因か”.レコードチャイナ(2010年7月20日).2015年10月18日閲覧。
^“本物「すごく似合う!」愛ちゃん一日署長”.日刊スポーツ(2012年9月22日).2015年10月18日閲覧。
^“始球式を務めた福原愛選手からのメッセージ”.楽天イーグルス(2012年10月4日).2015年10月18日閲覧。
^“福原愛が一日警察署長を務める 結婚については触れず/卓球”.サンケイスポーツ(2016年9月10日).2016年10月16日閲覧。
^abc愛ちゃんがNHKで中国語講座-『スポニチSponichiAnnexニュース芸能』2007年2月1日付(インターネットアーカイブ2007年2月6日付保存キャッシュより)
^2008年当時、ANAウェブサイト内に掲載されたCM情報ページ(リンク先は、インターネットアーカイブ2008年9月15日付保存キャッシュ)
^ANA新CM、福原愛が「かわいすぎる」と大評判!-日刊大衆(2017.01.3114:00公開)
^“クラシエは“世界ランキング第4位 福原愛選手”を応援しています”.クラシエ(2016年1月14日).2020年4月27日閲覧。
^“人は暮らしでできている。
”.クラシエ.2020年4月27日閲覧。
^福原愛&江宏傑、夫婦で共演!10日から「アサヒスーパードライ」新CM(サンスポ2016年11月8日)
^虫よけ「サラテクト」のCMは卓球の福原愛ちゃん夫妻のピクニック!アース製薬-TVRニュース(CM.Freak2018/05/3021:02)
^“2004年アテネオリンピックに関するアンケート”.マクロミル.2010年3月5日閲覧。
外部リンク
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夏季オリンピック
先代浜口京子
旗手北京オリンピック
次代吉田沙保里
全日本卓球選手権大会-優勝表話編歴全日本卓球選手権優勝者-女子シングルス1930年代
36保原キヨ
37保原キヨ
38保原キヨ
39保原キヨ
1940年代
40松浦弥寿子
41年から45年まで第二次世界大戦中のため中断
46加藤君枝
47松本貴代子
48松本貴代子
49田中良子
1950年代
50楢原静
51西村登美江
52田中良子
53渡辺妃生子
54江口冨士枝
55渡辺妃生子
56江口冨士枝
57山泉和子
58松崎キミ代
59松崎キミ代
1960年代
60山泉和子
61関正子
62松崎キミ代
63関正子
64山中教子
65森沢幸子
66山中教子
67大関行江
68小和田敏子
69小和田敏子
1970年代
70大関行江
71大関行江
72横田幸子
73大関行江
74横田幸子
75大関行江
76小野智恵子
77長洞久美子
78嶋内よし子
79和田理枝
1980年代
80和田理枝
81嶋内よし子
82神田絵美子
83星野美香
84星野美香
85星野美香
86星野美香
87星野美香
88佐藤利香
89星野美香
1990年代
90星野美香
91佐藤利香
92小山ちれ
93小山ちれ
94小山ちれ
95小山ちれ
96小山ちれ
97小山ちれ
98坂田愛
99小山ちれ
2000年代
00小山ちれ
01梅村礼
02梅村礼
03平野早矢香
04平野早矢香
05金沢咲希
06平野早矢香
07平野早矢香
08平野早矢香
09王輝
2010年代
10石川佳純
11福原愛
12福原愛
13石川佳純
14石川佳純
15石川佳純
16平野美宇
17伊藤美誠
18伊藤美誠
2020年代
20早田ひな
21石川佳純
22伊藤美誠
2018年までは年度表記
男子単
女子単
男子複
女子複
混合複
Jr男子
Jr女子
表話編歴全日本卓球選手権優勝者-女子ダブルス1930年代
36保原キヨ・高橋美千子
37横田静江・吉田きく江
38吉田きく江・松浦弥寿子
39吉田きく江・松浦弥寿子
1940年代
40高市恵美香・田中時恵
41-45中止
46加藤君枝・浅堀みさ子
47松本貴代子・伊藤芳子
48佐藤恵子・井上正子
49佐藤恵子・井上正子
1950年代
50西村登美江・石原れい子
51西村登美江・石原れい子
52佐藤富士子・山本千代子
53田中良子・田坂清子
54佐藤富士子・山本千代子
55佐藤富士子・山本千代子
56渡辺妃生子・設楽義子
57江口冨士枝・山泉和子
58松崎キミ代・村上淑子
59松崎キミ代・村上淑子
1960年代
60設楽義子・山泉和子
61松崎キミ代・渋谷淑子
62設楽義子・中山千鶴子
63伊藤和子・山中教子
64関正子・竹下ナツミ
65森沢幸子・下山智子
66浅枝敏子・直井敏子
67濱田美穂・小野美恵子
68小和田敏子・今野安子
69福野美恵子・平野美恵子
1970年代
70平野美恵子・阪本礼子
71濱田美穂・大関行江
72今野安子・平野美恵子
73枝野とみえ・長洞久美子
74葛巻まゆみ・小野智恵子
75高山徳子・菅谷佳代
76小野文子・鎌倉由美子
77小野文子・鎌倉由美子
78小野文子・鎌倉由美子
79高橋省子・川東加代子
1980年代
80神田絵美子・山下恵子
81神田絵美子・山下恵子
82神田絵美子・山下恵子
83神田絵美子・山下恵子
84橘川美紀・斎藤美香子
85山下さとみ・幸野信子
86橘川美紀・斎藤美香子
87謝春英・陳莉莉
88山田道代・星野美香
89鄭慧萍・詹莉
1990年代
90秋山真樹子・山谷弘子
91橘川美紀・佐藤利香
92河野文江・大柿柴保
93益田誌保・米倉知子
94佐藤利香・金上英代
95河野文江・大柿柴保
96高草由紀・坂田愛
97河野文江・大柿柴保
98西飯美幸・西飯由香
99西飯美幸・西飯由香
2000年代
00西飯美幸・西飯由香
01梅村礼・岡崎恵子
02小西杏・福原愛
03小西杏・福原愛
04小西杏・福原愛
05高橋美貴江・潮崎由香
06金沢咲希・藤井寛子
07福原愛・照井萌美
08平野早矢香・石川佳純
09藤井寛子・若宮三紗子
2010年代
10藤井寛子・若宮三紗子
11藤井寛子・若宮三紗子
12藤井寛子・若宮三紗子
13平野早矢香・石川佳純
14平野早矢香・石川佳純
15天野優・中島未早希
16平田有貴・永尾尭子
17早田ひな・伊藤美誠
18早田ひな・伊藤美誠
2020年代
20早田ひな・伊藤美誠
21中止
22早田ひな・伊藤美誠
2018年までは年度表記
男子単
女子単
男子複
女子複
混合複
Jr男子
Jr女子
表話編歴全日本卓球選手権優勝者-混合ダブルス1940年代
46藤井則和・松本貴代子
47余江捨二・加藤君枝
48守屋泰二・渡辺睦子
49田舛彦介・田中良子
1950年代
50溝畑司呂・西山貴代子
51峰石忠雄・田中良子
52本庄俊彦・西村登美江
53川井一男・後藤英子
54川井一男・後藤英子
55田中利明・生野千恵子
56荻村伊智朗・大川とみ
57坂本昇・難波多慧子
58荻村伊智朗・大川とみ
59村上輝夫・山泉和子
1960年代
60村上輝夫・山泉和子
61星野展弥・伊藤和子
62木村興治・竹島貴子
63伊東隆弘・石坂美智子
64三木圭一・関正子
65長谷川信彦・田中友子
66三木圭一・山中教子
67河原智・大関行江
68長谷川信彦・今野安子
69近藤有慶・今野安子
1970年代
70長谷川信彦・大関行江
71阿部勝幸・阪本礼子
72阿部勝幸・阪本礼子
73田村隆・小野文子
74伊藤繁雄・大関行江
75伊藤繁雄・大関行江
76前原正浩・葛巻まゆみ
77阿部博幸・福田京子
78坂本憲一・塚本英子
79阿部博幸・福田京子
1980年代
80村上力・村上美枝子
81小森孝則・浦喜久
82斎藤清・嶋内よし子
83斎藤清・嶋内よし子
84大竹克利・石田清美
85桜井正喜・山下さとみ
86斎藤清・細川幸智子
87斎藤清・細川幸智子
88斎藤清・細川幸智子
89黄若東・鄭慧萍
1990年代
90渡辺武弘・大野知子
91渡辺武弘・大野知子
92渡辺武弘・大野知子
93高志亮・室重明世
94小泉純彦・小貫菜穂子
95鬼頭明・西飯由香
96鬼頭明・西飯由香
97橋本正浩・金氏雅美
98川嶋崇弘・偉関絹子
99安藤正勝・西飯由香
2000年代
00小林仁・西飯美幸
01倉嶋洋介・河村朋枝
02渡辺将人・東郷媛
03新井周・小西杏
04坂本竜介・福原愛
05足立卓也・福岡春菜
06坂本竜介・福原愛
07田勢邦史・田勢美貴江
08田勢邦史・田勢美貴江
09松平健太・石川佳純
2010年代
10瀬山辰男・坂本夕佳
11松平賢二・若宮三紗子
12田添健汰・前田美優
13張一博・森薗美咲
14吉村真晴・石川佳純
15田添健汰・前田美優
16田添健汰・前田美優
17森薗政崇・伊藤美誠
18森薗政崇・伊藤美誠
2020年代
20森薗政崇・伊藤美誠
21中止
22張本智和・早田ひな
2018年までは年度表記、左が男子・右が女子
男子単
女子単
男子複
女子複
混合複
Jr男子
Jr女子
表話編歴全日本卓球選手権優勝者-ジュニア女子1950年代
50神谷節子
51川口沙智子
52一井玲子
53難波多慧子
54亀井敬子
55設楽義子
56小川節子
57藤井紀代子
58吉田たみ子
59山中教子
1960年代
60黒崎南海子
61深津尚子
62富田洋子
63大島洋子
64坂本義枝
65大関行江
66村上静代
67中村洋子
68大関政江
69横田幸子
1970年代
70猪狩栄子
71内田恒代
72内田恒代
73高橋紀子
74松田一三
75川東加代子
76田村友子
77岩田浩子
78小西淑子
79漆尾ゆりえ
1980年代
80福田紀子
81細矢順子
82橘川美紀
83室重明世
84内山京子
85内山京子
86吉田静子
87佐藤利香
88佐藤利香
89河合雅世
1990年代
90大島美絵
91松岡りか
92西飯由香
93河野文江
94辻本理恵
95川越真由
96武田明子
97小西杏
98藤沼亜衣
99藤井寛子
2000年代
00平野早矢香
01福原愛
02福原愛
03福原愛
04石塚美和子
05照井萌美
06石川佳純
07石川佳純
08石川佳純
09石川佳純
2010年代
10三宅菜津美
11谷岡あゆか
12松平志穂
13加藤美優
14伊藤美誠
15浜本由惟
16笹尾明日香
17長﨑美柚
18出澤杏佳
2020年代
20大藤沙月
21大藤沙月
22木原美悠
2018年までは年度表記
男子単
女子単
男子複
女子複
混合複
Jr男子
Jr女子
卓球日本代表-出場大会表話編歴卓球日本代表-2014年アジア競技大会監督
男子監督倉嶋洋介
女子監督村上恭和
男子3
水谷隼
丹羽孝希
松平健太
岸川聖也
村松雄斗
女子2
石川佳純
福原愛
平野早矢香
若宮三紗子
平野美宇
表話編歴卓球日本代表-2015世界卓球選手権監督
男子監督倉嶋洋介
女子監督村上恭和
男子
水谷隼
丹羽孝希
村松雄斗
松平健太
森薗政崇
吉村真晴
吉田雅己
大島祐哉
女子
石川佳純
福原愛
平野早矢香
伊藤美誠
若宮三紗子
平野美宇
表話編歴卓球日本代表-2015年アジア卓球選手権監督
男子監督倉嶋洋介
女子監督村上恭和
男子2
丹羽孝希
吉村真晴
大島祐哉
森薗政崇
村松雄斗
女子2
福原愛
伊藤美誠
平野美宇
若宮三紗子
田代早紀
表話編歴卓球日本代表-2016世界卓球選手権監督
男子監督倉嶋洋介
女子監督村上恭和
男子2
水谷隼
丹羽孝希
大島祐哉
吉村真晴
松平健太
女子2
福原愛
石川佳純
伊藤美誠
若宮三紗子
浜本由惟
表話編歴卓球日本代表-2016リオデジャネイロオリンピック監督
男子監督倉嶋洋介
女子監督村上恭和
男子
水谷隼
丹羽孝希
吉村真晴
女子
石川佳純
福原愛
伊藤美誠
表話編歴報知プロスポーツ大賞-特別賞1990年代
90鈴木亜久里
91増沢末夫
92三浦知良
93武豊,伊達公子
94南井克巳
95東聡,丸山茂樹
96なし
97平木理化,サッカー日本代表
98高橋由伸
99石井和義
2000年代
00長嶋茂雄,王貞治
01長嶋茂雄
02青木功
03星野仙一,西村了
04イチロー
05武豊
06WBC日本代表
07なし
08三浦皇成
09原辰徳
2010年代
10サッカー日本代表
11なでしこジャパン
12なし
13佐藤真海
14錦織圭,石川佳純
15秋山翔吾,ラグビー日本代表チーム
16伊調馨,上地結衣
17内山高志,桐生祥秀
18サッカー日本代表,福原愛
19ラグビー日本代表,阿部慎之助
2020年代
20-21中止
1999年までは特別奨励賞、2000-2002年と星野,内山,福原,阿部は特別功労賞
表話編歴日本ジュエリーベストドレッサー賞10代
1999:ともさかりえ
2000:加藤あい
01:深田恭子
02:上原多香子
03:上戸彩
04:後藤真希
05:松浦亜弥
06:BoA
07:長澤まさみ
08:堀北真希
09:成海璃子
10:福田沙紀
11:前田敦子
12:武井咲
13:川島海荷
14:川口春奈
15:橋本環奈
16:小松菜奈
17:中条あやみ
18:岡田結実
19:浜辺美波
20:Kōki,
21:森七菜
22:芦田愛菜
20代
1990:紺野美沙子
91:安田成美
92:今井美樹
93:牧瀬里穂
94:松雪泰子
95:石田ゆり子
96:飯島直子
97:梅宮アンナ
98:鶴田真由
99:松嶋菜々子
2000:安室奈美恵
01:本上まなみ
02:米倉涼子
03:菊川怜
04:伊東美咲
05:長谷川京子
06:小雪
07:倖田來未
08:加藤ローサ
09:広末涼子
10:ベッキー
11:黒木メイサ
12:大島優子
13:剛力彩芽
14:吉高由里子
15:桐谷美玲
16:井上真央
17:西内まりや
18:菜々緒
19:吉岡里帆
20:有村架純
21:新木優子
22:広瀬アリス
30代
1990:池上季実子
91:古手川祐子
92:島田陽子
93:名取裕子
94:樋口可南子
95:黒木瞳
96:石川さゆり
97:かたせ梨乃
98:川島なお美
99:高島礼子
2000:財前直見
01:中村江里子
02:川原亜矢子
03:小島奈津子
04:水野真紀
05:天海祐希
06:深津絵里
07:篠原涼子
08:中谷美紀
09:滝川クリステル
10:観月ありさ
11:木村佳乃
12:米倉涼子*
13:松嶋菜々子*
14:吉瀬美智子
15:深田恭子*
16:松下奈緒
17:柴咲コウ
18:上戸彩*
19:橋本マナミ
20:木村文乃
21:戸田恵梨香
22:佐々木希
40代
1990:村山勝美
91:沢田研二
92:阿川泰子
93:篠ひろ子
94:小池百合子
95:和田アキ子
96:田丸美寿々
97:小林幸子
98:小柳ルミ子
99:天童よしみ
2000:安藤優子
01:林真理子
02:萬田久子
03:浅田美代子
04:黒木瞳*
05:大竹しのぶ
06:大地真央
07:YOU
08:江角マキコ
09:真矢みき
10:大塚寧々
11:草刈民代
12:檀れい
13:永作博美
14:鈴木保奈美
15:宮沢りえ
16:吉田羊
17:石田ゆり子*
18:遼河はるひ
19:常盤貴子
20:藤原紀香
21:小池栄子
22:アンミカ
50代
1990:芳村真理
91:岩下志麻
92:若尾文子
93:佐久間良子
94:野際陽子
95:三田佳子
96:浅丘ルリ子
97:中村玉緒
98:島倉千代子
99:五月みどり
2000:瀬川瑛子
01:木の実ナナ
02:由美かおる
03:松坂慶子
04:桃井かおり
05:秋吉久美子
06:小池百合子*
07:阿川佐和子
08:風吹ジュン
09:夏木マリ
10:戸田恵子
11:高畑淳子
12:余貴美子
13:高橋惠子
14:浅野温子
15:片平なぎさ
16:沢口靖子
17:賀来千香子
18:浅野ゆう子
19:紫吹淳
20:松下由樹
21:斉藤由貴
22:真矢ミキ
60代以上
1997:森英恵
98:朝丘雪路
99:雪村いづみ
2000:市原悦子
01:デヴィ・スカルノ
02:白川由美
03:黒柳徹子
04:十朱幸代
05:野際陽子*
06:八千草薫
07:岩下志麻*
08:阿木燿子
09:森山良子
10:髙橋真梨子
11:八代亜紀
12:浅丘ルリ子*
13:由紀さおり
14:竹下景子
15:伊藤蘭
16:和田アキ子*
17:桃井かおり*
18:大竹しのぶ*
19:森昌子
20:原田美枝子
21:田中美佐子
22:宮崎美子
男性
1992:岡田眞澄
93:山城新伍
94:カールスモーキー石井
95:鹿賀丈史
98:小林旭
99:佐々木主浩
2000:高橋由伸
01:西城秀樹
02:新庄剛志
03:氷川きよし
04:坂口憲二
05:中村獅童
06:清原和博
07:速水もこみち
08:谷原章介
09:松山ケンイチ
10:佐藤隆太
11:伊藤英明
12:佐藤浩市
13:東山紀之
14:市原隼人
15:哀川翔
16:DAIGO
17:三浦春馬
18:福士蒼汰
19:舘ひろし
20:田中圭
21:横浜流星
22:北村匠海
特別賞
92:ジュリー・ドレフュス
93:ヒロコ・グレース
2001:高橋尚子
08:松坂大輔
10:イ・ビョンホン,鳩山幸
11:ウォンビン,蓮舫
12:少女時代,本田圭佑
13:KARA,内村航平
14:松本潤
15:髙橋大輔,MayJ.
16:ももいろクローバーZ,市川海老蔵
17:福原愛
18:浅丘ルリ子,村田諒太
19:コシノジュンコ,加山雄三
20:浅田真央,高橋英樹
21:内田篤人
22:水谷隼
*は複数回の受賞。
男性は1992年から、60代以上は97年から、10代は99年から対象
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福原愛(Fukuhara Ai ,1988年11月1日—),生于日本宮城縣,日本女子桌球運動員 ... 的新浪微 福原愛- 維基百科,自由的百科全書- Wikipedia 福原愛.